Archive for 2013年2月27日

おもしろいことに人は動く

『面白いことに人は動く』と聞いて皆さんはどう思いますか?

 

『そりゃそうだ』でしょうか?

『そんな風に面白いことだけやってたらダメなんだからね!』でしょうか?

 

――話の核心に入る前に、私自身の少年時代の話をします。

私、白井暁彦は、大都会・横浜に1973年3月に生まれました。横浜といっても今あるようなお洒落なイメージというよりは、工業が盛んな荒っぽい雰囲気のある「下町」で育ちました。3月生まれということもあり、徒競走をすればいつもビリ、友達は少なく、どちらかというと「いじめられっ子」だったかもしれません。

父親は石油エンジニアで世界を飛び回っており、合理的で厳格な人物でした。家にいる時は「いつ怒鳴られ、殴られるか」とビクビクしていたものです。
まあ本人から見れば、“面白くない”少年時代ですね。
そんな自分が「何かしらの才能」を発揮し始めたのは、10歳の頃で、親が買って自由に使えるよう与えていたマイコン(NEC PC-6001mkII)で、ゲームプログラムを書いていた頃です。

こういう子供は私の世代ではそれほど珍しくありません。『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社・1982~2003年)という雑誌があり、毎月ページびっしりのプログラム。2000行ほどのコードを間違いなく打ち込んでいくと、ゲームがタダで遊べます。保存する方法も安定していなかったので、電源を切ると消えてしまう事があります。

他人の書いたプログラムを2000行も「写経」するなんて、今の人にとっては苦行以外の何物でもないかもしれませんね! でも当時少年の私は楽しかったのだと思います。5歳ほど年上であれば、毎月常連で掲載されるようなゲームプログラマもいらっしゃいましたし、雑誌の中でキャラクター化している編集者たちの掛け合いが大変おもしろく、時には欄外はゲームブックがあったりと、雑誌なのに勉強になるし、読む人を飽きさせない「作り手の娯楽性」がありました\footnote[1]{マイコンベーシックマガジンはその後、休刊7年後の2010年、「ゲームプログラマーの育成に対する多大なる貢献」としてゲーム開発者会議であるCEDEC AWARDS 2010(プログラミング・開発環境部門)の最優秀賞を受賞した}

当時のマイコンを扱った雑誌は、コンピュータ・サイエンスを扱った「BIT」(共立出版・1969年3月~2001年4月)、「アイ・オー」(1976年10月~現・工学社から刊行中、『月刊アスキー』(アスキー社・1977年~2006年休刊)などあり、どれも知的探究心や情報収集欲を刺激する「面白い雑誌」でした。マイコン(Micro Computer)からパソコン(Personal Computer)時代、専門家から個人使用・ホビー化へ爆発的な普及が始まった時代で、世の中のコンピュータが「使う側」と「作る側」に分かれていく過程だったとも言えるでしょう。

この「使う側」とは、ゲームで言えば「遊ぶ側」です。少年時代の私はこの「遊ぶ(だけの)側」と「作る側」の違いを明確に理解していました。

決定的な決別が『ファミリー・コンピュータ』の登場でした。
「ゲームセンターでしか遊べない、あの魅力的なゲームが、家庭で遊べる!しかもカセットを差し替えると違うゲームが遊べるんだよ!」……とスネ夫によく似たクラスの「仲間的な友人」が主張しました。彼の家はいつだって、最新の高価な玩具を買ってもらえるのです。飽きるのもその分速い。あるとき、彼は通学途中の道すがら、私に「マイコンとファミコン、どっちがすごいか」について議論を持ちかけたので、次のように反論したことを記憶しています。

『いいかい、カセットってのはロムカセットのことだろう?ロムってのはROM、リードオンリーメモリー、読むことしかできないってこと!』

スネ夫によく似た彼は、しばらくキョトンとしていました。
それは私がリードオンリーメモリー(Read Only Memory)などという英語を使ったからではなかったと思います。

「でもお前だってマイコンでゲームしてるじゃんよ!」と彼は反論しました。ゲームを作ることと、遊ぶこと。議論そのものの次元が違うことはわかりましたが、その先は泥沼です。「どうやったらこの議論を論破できるのだろうか?」と悩みましたが勝負はつかなかったと記憶しています。
――面白いことに人は動く。
この事は、マイコン雑誌でゲームを写し、改造し、オリジナルのゲームを作っているだけでは気が付きませんでした。

小学生の私は、運動は苦手でしたが、コンピュータに触れているだけではなく、近所の公民館などで遊ぶこともありました。今のように家庭用ゲーム機もなければカードゲームが流行っているわけでもなかったので!

流行っているものとしては「キン肉マン消しゴム」や「ビックリマンチョコ」といった蒐集もの。これは財力が全てです。野球を代表とする球技やスポーツは、当時テレビで「巨人の星」や「エースをねらえ!」、「あしたのジョー」などが流行っていることもあり、根性!根性!痛いの当然!苦しいの当たり前……!勝利こそがすべて!という世の中でしたので、とにかく苦手でした。

そんな私でもできる遊びとして、外での遊具や駆けっこ的な遊び、インドアでは縄跳びのようなロープやゴムボールを使った遊びを中心に遊んでいることが多かったように記憶しています。

しかしボールやロープだけでは遊びに限界があります。当時外で遊ばれていた遊びは「影ふみ」というシンプルなもの、「ケイドロ」という警官と泥棒に分かれて鬼ごっこをするゲーム、それから「ろくむし」という団地で流行っていた野球に似たゲームがありました。この「ろくむし」は、守備側と攻撃側に別れ、2点間を攻撃側プレイヤーが6回往復すれば勝ちで、守備側は軟式テニスボールをぶつけることで攻撃側を撃ち倒すことができます。新しいルールが子供たちによって常に自発的に提案され、時にはゲームバランスを崩しますが、時にはそれで子供たちのグループが真っ二つになることもありました。

明らかに面白くないルール、誰かにだけ有利なルールを提案しても、子供たちはついて来ません。それが仮にガキ大将であり、喧嘩が強い子供の提案で、強制的に実行されたとします。でも、実際にやってみてもゲームが成立しないか、続かないのです。

常に重要なルールは「面白いほう」に子供が動く、ということです。私は自分で面白いゲームシステムを提案する才能があったようで、周りの子供を「やってみようよ!」という気持ちにさせる側に立つことが多かったと思います。それが理由でいじめられることもあったかもしれませんが、遊び中として男女問わず友達が増えたり……といったプラスの出来事のほうが記憶には残っています。
この「面白いことに人は動く」、「面白くないと続かない」というポイントは重要で、次のお話に続きます。

 

おもしろくないと続かない

 

私が働いている神奈川工科大学・情報メディア学科には「ゲームクリエイタになりたい!」という学生さんがたくさんいらっしゃいます。文系とも理系ともつかない「情報メディア学科」の学生さんを相手に、ゲーム技術やメディアアート、新しい映像技術や、「おもしろさ」を解明する科学の面白さを学ぶ機会をつくり、実際の産業の中で活躍していただけるような「人材」

この本を使って世界でも珍しい「自分で面白いインタラクションの企画を考えて、それをWiiリモコンで実装し、レポートする」という課題を2年生の演習で毎年200人以上の学生に教えています。

お絵かきが得意な学生も、プログラミングが得意な学生も、同じ課題に取り組みます。基本的にはひとりで、本とWiiリモコンと格闘しながら『自分の作りたい世界』を作り、発表します。

多くの学生は最初『任天堂Wiiなんて、最近起動すらしてねーわ』とか『ワタシ、プログラミングとか無理!』という感じの事をおっしゃいます。ですが、実際に作ってみると、これは面白い。そして誰にでもできることの組み合わせで「新しい体験」は生まれてくるのです。

プロローグ:おもしろい話はむずかしい

 

「――で、白井さんだったら”おもしろい話”が書けると思うんですよ」

小田急線で”首都圏・西の最果ての地”である『本厚木』。

 

その駅ビルでの喫茶店での打ち合わせの最中、
担当編集者の大内さんは、私の顔をジッと見て、真顔でひとこと、そういいました。

大内さんは、かわいい猫と同居している小柄な女性で、ガンコな編集者さんです。

『おもしろい話……って、どうして……大内さん……いつもそうやって、直感で……』

しどろもどろしながら、私の目の前には、前作『WiiRemoteプログラミング』(オーム社開発局・2009年刊)という書籍を書いた日々が、走馬灯のように駆け巡っていました。

企画担当者は大内さん。
この本の企画が持ち上がった当時の私は、フランス西部の小都市Laval在住で、バーチャルリアリティを駆使したエンタテイメント・テーマパークを開発する研究をしていました。

フランスでの私は日本語が通じない環境で、妻と小さな息子と犬のささやかな家庭で“貧乏研究者を楽しんでいた”ので、高価なヘッドマウントディスプレイとか、モーションキャプチャーとか、データグローブとか、そういったヴァーチャル・リアリティによく使われていそうなモノがポンポン買ってもらえる環境ではありませんでした。
任天堂Wiiの『Wiiリモコン』を使って、様々な作品を開発したり発表したりしていたのは、ひとえに「貧乏だったので、工夫が必要だったから」。モーションキャプチャーや触覚フィードバックデバイスなど、新しいインタラクションのためのデバイスが買えなかったし、そんなお金があったら他の研究のために使いたかったからなのです。

『Wiiリモコン』を普通にWiiに繋いで遊ぶだけなら、普通の人です。
実は『Wiiリモコン』はBluetooth通信を使って、PCやMacで接続することができます。でもこれを使うだけではハッカーと呼んでもらえることはあっても、研究にはなりません。
もともとゲームエンジニアだった私は、その経験を生かして、ゲーム開発者にも、研究者にも面白いであろう論文を書いていました。
その論文は、SIGGRAPHというCGとインタラクティブ技術の国際会議で発表され、ゲーム開発会議部門で最優秀論文賞を頂きました。

2007年末、テーマパーク開発のプロジェクトもいったん区切りがついていて、日本への帰国を検討していた時期でした。
大内さんの熱意もあり、
世界ではじめてのWiiリモコンに関するまとまった技術書『WiiRemoteプログラミング』を書くことになりました。

……ですが。
かねてから書籍を書きたいと思っていた私ではありますが、この本は実に“難産”で、執筆に20ヶ月もかかってしまいました。
途中から入っていただいた小坂崇之先生(妊婦体験システムで有名、当時・金沢工業大)などの共著者のおかげもあって、200ページの企画が、最後には400ページの大作になりました。
「Wiiリモコンを使って勝手に開発するなんて、訴えられるんじゃないか……」という心配もよそに、任天堂からも「公式にスルー」していただいたこともあり、現在でも多くの大学などでエンタテイメントシステム、インタラクション技術のプログラミング入門書として愛用されています。

……ですが。
あの執筆の辛い日々を思い出すと、簡単に「おもしろい話」とはいえません。
ちょうど2008年から私は、東京お台場にある『日本科学未来館』という国立の科学館で、科学コミュニケーターという職に就いていました。

日本科学未来館は『科学がわかる・世界が変わる』というスローガンで活動しており、科学コミュニケーターはプロフェッショナルとして、最先端の科学技術について伝えるお仕事です。
あるときは展示物や企画展の企画をし、またある時は展示フロアで一般のお客様に展示解説をし……1日に3千人以上の来館者も珍しくないミュージアムですから、それはそれは勉強になりました。

勉強になること、というものは、得てして辛いものです。

勉強になること、というものは、得てして制約も多いものです。

朝早くから未来館でのお仕事があり、土日も当然のように仕事があります。クタクタになるまで働き、そこから深夜のマクドナルドで原稿を書き、相模原からお台場の長い通勤の列車の中で、書籍掲載用のサンプルプログラムを書き、そこら中でWiiリモコンを振る日々です。

『で、大内さん。おもしろい話……って、どうして私が書けると……?』

大内さんは全く動揺もせずに、

「白井さんは、いろんなエンタテイメントに関わる仕事をして、何があっても喰って行けているじゃないですか。Twitterも面白いし、エンジニアリングの話ができる。だからみんなの為になる、おもしろい話は書けると思うんです」(意訳)。

『なるほど、じゃあこの本のタイトルは“喰えるゲームエンジニアリング”ですね!』

――そうしてこの本は始まりました。