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白のゲーミフィケーション・黒のゲーミフィケーション

ゲーミフィケーション(Gamification)といえば,ゲームのルールをビジネスや企業活動に持ち込んで,社員のやる気を引き出そう!という事例が多く紹介されております.
しかし私は,今日的な大学生を相手にする上で,
「白のゲーミフィケーション・黒のゲーミフィケーション」
というコミュニケーションテクニックを使っています.

事例: 電源を使いたくてN700の窓側の席をとったのに、乗ってみたら隣の人が電源使用中。ここまではまだいいが、座ろうとする私に「充電させてもらってまーす♪(断言)」と当然のように先手を打たれたこのモヤモヤ感は、どうしたらいいですか・・・とりあえず、名古屋まで様子見かな…。

さてみなさんならどうしますか?
一般的な方法では,ズバリ「お願いする」ということになると思います.
「充電したい!そのための窓側の予約だ!」と伝えて、抵抗されたら車掌さんに、場所を変えてもらう…って感じの人もいると思います.
でもこんな方法はどうでしょう?

路線1
(1)まず自分の携帯を電源断
(2)隣の人の携帯をジッとみます
(3)「かっこいい携帯ですね…電池の持ちもいいんですよね?」
(4)「私の携帯,ちょっと古いのか,すぐに電池が切れちゃって困っているんです…このあとも実家が山深いので,この残量だと持ちそうになくて…」

路線2
(1)まずケーブルを構える
(2)隣に向かってニコッ
(3)「そろそろ満充電ですよね,こちら頂きま~す」

災害等の非常食を分け合う場合でも同じですよね
自分のお腹が満たされていれば,分け合う気持ちもおきるというもので….
解説すると
(1)やりたいことを言語以外で示す
(2)笑顔で接する/褒める/羨む
(3)Noと言えない言葉でお願いする

最初から怒号や乱暴な言葉が飛び交うと,そのうち暴動になります.
相手にYesと言わせる心の準備をさせることが重要ですね.

元々やらねばならないことがある状況にいる人を,目に見える方法でゲーム化することで人間を動かす,これを「白のゲーミフィケーション」と呼ぶとすると,
元々やりたいことなんてなくて,自分から動く必要もない人を,暗に動きたくする…これを「黒のゲーミフィケーション」と,私は呼んでいます.

なぜこれが「ゲーミフィケーション」なのか.
それは,この「心の動きの設計」が,詰将棋と同じようなルール使っているからです.
本人が気が付かないうちに,相手を盤面の上に置き,最適戦略を取らせることで,自分の意図する方向に自ら進ませるという高等テクニックです.

詳しくはいま執筆中の本に書いておきます.

経済学と生物学が教えてくれる、「生き延びるエンジニアのための多様性」

技術が生まれてからその技術の意味を考えることには、

「なんだか後付で卑怯なんじゃないか?」

という疑問を抱くことがあるかもしれません。

でもこれは、複合的に絡まる、現代の社会において大変重要なことです。

また、技術者が技術の意味を考えることに目を向けなければならない理由があります。

 

ちょっと昔の研究者を紹介しましょう。

ハーバード・スペンサーの「社会進化論」で唱えられたワード
適者生存”survival of the fittest” と進化”evolution”
です。

進化といえば生物学者ダーウィンですが、それよりも前に経済学者であるスペンサーが提案した語であることが興味深いです。

その種が生き残るかどうかは、適応できるかどうかにかかっている、という考え方です。

技術と違って、生物種などは特に「考えて生まれたもの」という過程は成り立ちません。

「生物は神様が作ったもの」という考え方だったとしても、「技術は人が作ったもの」であり、「人が使わない技術」は死に絶えます。

技術が生き延びるためには、技術の利用者にとっての意味とか価値を明らかにすることが必要です。

 

そして、いま、生物学では「生物多様性の維持」が重要な課題になっています。

家畜や植林のように、人間の目的で増やした生物ばかりが増えて、多様な生物が存在しなければ、本来の自然の生態系が持っているバランスを維持することが難しくなります。

それは一体何が、危険なのでしょうか?

わかり易い例では、ある生物を一定の確率で補食し減らす外敵や、分解者のような「直接見えてこないけれども、絶滅されると困る種」の存在でしょうか。

生物の専門家によると、以下の3つの多様性に分けて考えられるようです。

種の多様性:様々な生物種が存在すること
遺伝子の多様性:同一種であっても種内の個体群や遺伝子が異なっていること
生態系の多様性:それらの種の生息環境が多様であること

「種の多様性」だけが目につくわけですが、
「遺伝子の多様性」は、その生息地に適応した結果生み出せたものであり、その多様性の低下が進むと、気候や病気に対応できなくなり、絶滅の危険性が高まります。
「生態系の多様性」とは、生物と非生物的要素が作り出す環境で、それらが有機的な関係を保つことにより構成された自然システムの多様性を指します。

生物種を技術や製品、遺伝子をそれを創りだしたエンジニアや設計思想と考えると、「生態系の多様性」はその製品や技術のニーズを生み出した社会を含めた環境そのものの多様性を指すということになり、納得がいきます。

日本がガラパゴス製品だらけになってしまうのは当然の結果であり、生態系の多様性や遺伝子の多様性、つまり幅広い社会環境やユーザモデル、幅広い思想のエンジニアを維持しなければ、技術種の多様性は維持できないし、たとえばリサイクル技術のように、使用済み携帯電話からレアメタルを効率よく回収・抽出・再資源化するような技術を考えた製品デザインにはたどり着きません。

「リサイクル技術?そんなことは私のエンジニアリングには関係ない」

と考えるかもしれませんが、サステナビリティ(持続可能性)を持ち、連続的な社会の変化に適応して「生き延びるエンジニア」としては重要な視点なのです。

 

 

おもしろいことに人は動く

『面白いことに人は動く』と聞いて皆さんはどう思いますか?

 

『そりゃそうだ』でしょうか?

『そんな風に面白いことだけやってたらダメなんだからね!』でしょうか?

 

――話の核心に入る前に、私自身の少年時代の話をします。

私、白井暁彦は、大都会・横浜に1973年3月に生まれました。横浜といっても今あるようなお洒落なイメージというよりは、工業が盛んな荒っぽい雰囲気のある「下町」で育ちました。3月生まれということもあり、徒競走をすればいつもビリ、友達は少なく、どちらかというと「いじめられっ子」だったかもしれません。

父親は石油エンジニアで世界を飛び回っており、合理的で厳格な人物でした。家にいる時は「いつ怒鳴られ、殴られるか」とビクビクしていたものです。
まあ本人から見れば、“面白くない”少年時代ですね。
そんな自分が「何かしらの才能」を発揮し始めたのは、10歳の頃で、親が買って自由に使えるよう与えていたマイコン(NEC PC-6001mkII)で、ゲームプログラムを書いていた頃です。

こういう子供は私の世代ではそれほど珍しくありません。『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社・1982~2003年)という雑誌があり、毎月ページびっしりのプログラム。2000行ほどのコードを間違いなく打ち込んでいくと、ゲームがタダで遊べます。保存する方法も安定していなかったので、電源を切ると消えてしまう事があります。

他人の書いたプログラムを2000行も「写経」するなんて、今の人にとっては苦行以外の何物でもないかもしれませんね! でも当時少年の私は楽しかったのだと思います。5歳ほど年上であれば、毎月常連で掲載されるようなゲームプログラマもいらっしゃいましたし、雑誌の中でキャラクター化している編集者たちの掛け合いが大変おもしろく、時には欄外はゲームブックがあったりと、雑誌なのに勉強になるし、読む人を飽きさせない「作り手の娯楽性」がありました\footnote[1]{マイコンベーシックマガジンはその後、休刊7年後の2010年、「ゲームプログラマーの育成に対する多大なる貢献」としてゲーム開発者会議であるCEDEC AWARDS 2010(プログラミング・開発環境部門)の最優秀賞を受賞した}

当時のマイコンを扱った雑誌は、コンピュータ・サイエンスを扱った「BIT」(共立出版・1969年3月~2001年4月)、「アイ・オー」(1976年10月~現・工学社から刊行中、『月刊アスキー』(アスキー社・1977年~2006年休刊)などあり、どれも知的探究心や情報収集欲を刺激する「面白い雑誌」でした。マイコン(Micro Computer)からパソコン(Personal Computer)時代、専門家から個人使用・ホビー化へ爆発的な普及が始まった時代で、世の中のコンピュータが「使う側」と「作る側」に分かれていく過程だったとも言えるでしょう。

この「使う側」とは、ゲームで言えば「遊ぶ側」です。少年時代の私はこの「遊ぶ(だけの)側」と「作る側」の違いを明確に理解していました。

決定的な決別が『ファミリー・コンピュータ』の登場でした。
「ゲームセンターでしか遊べない、あの魅力的なゲームが、家庭で遊べる!しかもカセットを差し替えると違うゲームが遊べるんだよ!」……とスネ夫によく似たクラスの「仲間的な友人」が主張しました。彼の家はいつだって、最新の高価な玩具を買ってもらえるのです。飽きるのもその分速い。あるとき、彼は通学途中の道すがら、私に「マイコンとファミコン、どっちがすごいか」について議論を持ちかけたので、次のように反論したことを記憶しています。

『いいかい、カセットってのはロムカセットのことだろう?ロムってのはROM、リードオンリーメモリー、読むことしかできないってこと!』

スネ夫によく似た彼は、しばらくキョトンとしていました。
それは私がリードオンリーメモリー(Read Only Memory)などという英語を使ったからではなかったと思います。

「でもお前だってマイコンでゲームしてるじゃんよ!」と彼は反論しました。ゲームを作ることと、遊ぶこと。議論そのものの次元が違うことはわかりましたが、その先は泥沼です。「どうやったらこの議論を論破できるのだろうか?」と悩みましたが勝負はつかなかったと記憶しています。
――面白いことに人は動く。
この事は、マイコン雑誌でゲームを写し、改造し、オリジナルのゲームを作っているだけでは気が付きませんでした。

小学生の私は、運動は苦手でしたが、コンピュータに触れているだけではなく、近所の公民館などで遊ぶこともありました。今のように家庭用ゲーム機もなければカードゲームが流行っているわけでもなかったので!

流行っているものとしては「キン肉マン消しゴム」や「ビックリマンチョコ」といった蒐集もの。これは財力が全てです。野球を代表とする球技やスポーツは、当時テレビで「巨人の星」や「エースをねらえ!」、「あしたのジョー」などが流行っていることもあり、根性!根性!痛いの当然!苦しいの当たり前……!勝利こそがすべて!という世の中でしたので、とにかく苦手でした。

そんな私でもできる遊びとして、外での遊具や駆けっこ的な遊び、インドアでは縄跳びのようなロープやゴムボールを使った遊びを中心に遊んでいることが多かったように記憶しています。

しかしボールやロープだけでは遊びに限界があります。当時外で遊ばれていた遊びは「影ふみ」というシンプルなもの、「ケイドロ」という警官と泥棒に分かれて鬼ごっこをするゲーム、それから「ろくむし」という団地で流行っていた野球に似たゲームがありました。この「ろくむし」は、守備側と攻撃側に別れ、2点間を攻撃側プレイヤーが6回往復すれば勝ちで、守備側は軟式テニスボールをぶつけることで攻撃側を撃ち倒すことができます。新しいルールが子供たちによって常に自発的に提案され、時にはゲームバランスを崩しますが、時にはそれで子供たちのグループが真っ二つになることもありました。

明らかに面白くないルール、誰かにだけ有利なルールを提案しても、子供たちはついて来ません。それが仮にガキ大将であり、喧嘩が強い子供の提案で、強制的に実行されたとします。でも、実際にやってみてもゲームが成立しないか、続かないのです。

常に重要なルールは「面白いほう」に子供が動く、ということです。私は自分で面白いゲームシステムを提案する才能があったようで、周りの子供を「やってみようよ!」という気持ちにさせる側に立つことが多かったと思います。それが理由でいじめられることもあったかもしれませんが、遊び中として男女問わず友達が増えたり……といったプラスの出来事のほうが記憶には残っています。
この「面白いことに人は動く」、「面白くないと続かない」というポイントは重要で、次のお話に続きます。

 

おもしろくないと続かない

 

私が働いている神奈川工科大学・情報メディア学科には「ゲームクリエイタになりたい!」という学生さんがたくさんいらっしゃいます。文系とも理系ともつかない「情報メディア学科」の学生さんを相手に、ゲーム技術やメディアアート、新しい映像技術や、「おもしろさ」を解明する科学の面白さを学ぶ機会をつくり、実際の産業の中で活躍していただけるような「人材」

この本を使って世界でも珍しい「自分で面白いインタラクションの企画を考えて、それをWiiリモコンで実装し、レポートする」という課題を2年生の演習で毎年200人以上の学生に教えています。

お絵かきが得意な学生も、プログラミングが得意な学生も、同じ課題に取り組みます。基本的にはひとりで、本とWiiリモコンと格闘しながら『自分の作りたい世界』を作り、発表します。

多くの学生は最初『任天堂Wiiなんて、最近起動すらしてねーわ』とか『ワタシ、プログラミングとか無理!』という感じの事をおっしゃいます。ですが、実際に作ってみると、これは面白い。そして誰にでもできることの組み合わせで「新しい体験」は生まれてくるのです。

プロローグ:おもしろい話はむずかしい

 

「――で、白井さんだったら”おもしろい話”が書けると思うんですよ」

小田急線で”首都圏・西の最果ての地”である『本厚木』。

 

その駅ビルでの喫茶店での打ち合わせの最中、
担当編集者の大内さんは、私の顔をジッと見て、真顔でひとこと、そういいました。

大内さんは、かわいい猫と同居している小柄な女性で、ガンコな編集者さんです。

『おもしろい話……って、どうして……大内さん……いつもそうやって、直感で……』

しどろもどろしながら、私の目の前には、前作『WiiRemoteプログラミング』(オーム社開発局・2009年刊)という書籍を書いた日々が、走馬灯のように駆け巡っていました。

企画担当者は大内さん。
この本の企画が持ち上がった当時の私は、フランス西部の小都市Laval在住で、バーチャルリアリティを駆使したエンタテイメント・テーマパークを開発する研究をしていました。

フランスでの私は日本語が通じない環境で、妻と小さな息子と犬のささやかな家庭で“貧乏研究者を楽しんでいた”ので、高価なヘッドマウントディスプレイとか、モーションキャプチャーとか、データグローブとか、そういったヴァーチャル・リアリティによく使われていそうなモノがポンポン買ってもらえる環境ではありませんでした。
任天堂Wiiの『Wiiリモコン』を使って、様々な作品を開発したり発表したりしていたのは、ひとえに「貧乏だったので、工夫が必要だったから」。モーションキャプチャーや触覚フィードバックデバイスなど、新しいインタラクションのためのデバイスが買えなかったし、そんなお金があったら他の研究のために使いたかったからなのです。

『Wiiリモコン』を普通にWiiに繋いで遊ぶだけなら、普通の人です。
実は『Wiiリモコン』はBluetooth通信を使って、PCやMacで接続することができます。でもこれを使うだけではハッカーと呼んでもらえることはあっても、研究にはなりません。
もともとゲームエンジニアだった私は、その経験を生かして、ゲーム開発者にも、研究者にも面白いであろう論文を書いていました。
その論文は、SIGGRAPHというCGとインタラクティブ技術の国際会議で発表され、ゲーム開発会議部門で最優秀論文賞を頂きました。

2007年末、テーマパーク開発のプロジェクトもいったん区切りがついていて、日本への帰国を検討していた時期でした。
大内さんの熱意もあり、
世界ではじめてのWiiリモコンに関するまとまった技術書『WiiRemoteプログラミング』を書くことになりました。

……ですが。
かねてから書籍を書きたいと思っていた私ではありますが、この本は実に“難産”で、執筆に20ヶ月もかかってしまいました。
途中から入っていただいた小坂崇之先生(妊婦体験システムで有名、当時・金沢工業大)などの共著者のおかげもあって、200ページの企画が、最後には400ページの大作になりました。
「Wiiリモコンを使って勝手に開発するなんて、訴えられるんじゃないか……」という心配もよそに、任天堂からも「公式にスルー」していただいたこともあり、現在でも多くの大学などでエンタテイメントシステム、インタラクション技術のプログラミング入門書として愛用されています。

……ですが。
あの執筆の辛い日々を思い出すと、簡単に「おもしろい話」とはいえません。
ちょうど2008年から私は、東京お台場にある『日本科学未来館』という国立の科学館で、科学コミュニケーターという職に就いていました。

日本科学未来館は『科学がわかる・世界が変わる』というスローガンで活動しており、科学コミュニケーターはプロフェッショナルとして、最先端の科学技術について伝えるお仕事です。
あるときは展示物や企画展の企画をし、またある時は展示フロアで一般のお客様に展示解説をし……1日に3千人以上の来館者も珍しくないミュージアムですから、それはそれは勉強になりました。

勉強になること、というものは、得てして辛いものです。

勉強になること、というものは、得てして制約も多いものです。

朝早くから未来館でのお仕事があり、土日も当然のように仕事があります。クタクタになるまで働き、そこから深夜のマクドナルドで原稿を書き、相模原からお台場の長い通勤の列車の中で、書籍掲載用のサンプルプログラムを書き、そこら中でWiiリモコンを振る日々です。

『で、大内さん。おもしろい話……って、どうして私が書けると……?』

大内さんは全く動揺もせずに、

「白井さんは、いろんなエンタテイメントに関わる仕事をして、何があっても喰って行けているじゃないですか。Twitterも面白いし、エンジニアリングの話ができる。だからみんなの為になる、おもしろい話は書けると思うんです」(意訳)。

『なるほど、じゃあこの本のタイトルは“喰えるゲームエンジニアリング”ですね!』

――そうしてこの本は始まりました。