おもしろいことに人は動く

『面白いことに人は動く』と聞いて皆さんはどう思いますか?

 

『そりゃそうだ』でしょうか?

『そんな風に面白いことだけやってたらダメなんだからね!』でしょうか?

 

――話の核心に入る前に、私自身の少年時代の話をします。

私、白井暁彦は、大都会・横浜に1973年3月に生まれました。横浜といっても今あるようなお洒落なイメージというよりは、工業が盛んな荒っぽい雰囲気のある「下町」で育ちました。3月生まれということもあり、徒競走をすればいつもビリ、友達は少なく、どちらかというと「いじめられっ子」だったかもしれません。

父親は石油エンジニアで世界を飛び回っており、合理的で厳格な人物でした。家にいる時は「いつ怒鳴られ、殴られるか」とビクビクしていたものです。
まあ本人から見れば、“面白くない”少年時代ですね。
そんな自分が「何かしらの才能」を発揮し始めたのは、10歳の頃で、親が買って自由に使えるよう与えていたマイコン(NEC PC-6001mkII)で、ゲームプログラムを書いていた頃です。

こういう子供は私の世代ではそれほど珍しくありません。『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社・1982~2003年)という雑誌があり、毎月ページびっしりのプログラム。2000行ほどのコードを間違いなく打ち込んでいくと、ゲームがタダで遊べます。保存する方法も安定していなかったので、電源を切ると消えてしまう事があります。

他人の書いたプログラムを2000行も「写経」するなんて、今の人にとっては苦行以外の何物でもないかもしれませんね! でも当時少年の私は楽しかったのだと思います。5歳ほど年上であれば、毎月常連で掲載されるようなゲームプログラマもいらっしゃいましたし、雑誌の中でキャラクター化している編集者たちの掛け合いが大変おもしろく、時には欄外はゲームブックがあったりと、雑誌なのに勉強になるし、読む人を飽きさせない「作り手の娯楽性」がありました\footnote[1]{マイコンベーシックマガジンはその後、休刊7年後の2010年、「ゲームプログラマーの育成に対する多大なる貢献」としてゲーム開発者会議であるCEDEC AWARDS 2010(プログラミング・開発環境部門)の最優秀賞を受賞した}

当時のマイコンを扱った雑誌は、コンピュータ・サイエンスを扱った「BIT」(共立出版・1969年3月~2001年4月)、「アイ・オー」(1976年10月~現・工学社から刊行中、『月刊アスキー』(アスキー社・1977年~2006年休刊)などあり、どれも知的探究心や情報収集欲を刺激する「面白い雑誌」でした。マイコン(Micro Computer)からパソコン(Personal Computer)時代、専門家から個人使用・ホビー化へ爆発的な普及が始まった時代で、世の中のコンピュータが「使う側」と「作る側」に分かれていく過程だったとも言えるでしょう。

この「使う側」とは、ゲームで言えば「遊ぶ側」です。少年時代の私はこの「遊ぶ(だけの)側」と「作る側」の違いを明確に理解していました。

決定的な決別が『ファミリー・コンピュータ』の登場でした。
「ゲームセンターでしか遊べない、あの魅力的なゲームが、家庭で遊べる!しかもカセットを差し替えると違うゲームが遊べるんだよ!」……とスネ夫によく似たクラスの「仲間的な友人」が主張しました。彼の家はいつだって、最新の高価な玩具を買ってもらえるのです。飽きるのもその分速い。あるとき、彼は通学途中の道すがら、私に「マイコンとファミコン、どっちがすごいか」について議論を持ちかけたので、次のように反論したことを記憶しています。

『いいかい、カセットってのはロムカセットのことだろう?ロムってのはROM、リードオンリーメモリー、読むことしかできないってこと!』

スネ夫によく似た彼は、しばらくキョトンとしていました。
それは私がリードオンリーメモリー(Read Only Memory)などという英語を使ったからではなかったと思います。

「でもお前だってマイコンでゲームしてるじゃんよ!」と彼は反論しました。ゲームを作ることと、遊ぶこと。議論そのものの次元が違うことはわかりましたが、その先は泥沼です。「どうやったらこの議論を論破できるのだろうか?」と悩みましたが勝負はつかなかったと記憶しています。
――面白いことに人は動く。
この事は、マイコン雑誌でゲームを写し、改造し、オリジナルのゲームを作っているだけでは気が付きませんでした。

小学生の私は、運動は苦手でしたが、コンピュータに触れているだけではなく、近所の公民館などで遊ぶこともありました。今のように家庭用ゲーム機もなければカードゲームが流行っているわけでもなかったので!

流行っているものとしては「キン肉マン消しゴム」や「ビックリマンチョコ」といった蒐集もの。これは財力が全てです。野球を代表とする球技やスポーツは、当時テレビで「巨人の星」や「エースをねらえ!」、「あしたのジョー」などが流行っていることもあり、根性!根性!痛いの当然!苦しいの当たり前……!勝利こそがすべて!という世の中でしたので、とにかく苦手でした。

そんな私でもできる遊びとして、外での遊具や駆けっこ的な遊び、インドアでは縄跳びのようなロープやゴムボールを使った遊びを中心に遊んでいることが多かったように記憶しています。

しかしボールやロープだけでは遊びに限界があります。当時外で遊ばれていた遊びは「影ふみ」というシンプルなもの、「ケイドロ」という警官と泥棒に分かれて鬼ごっこをするゲーム、それから「ろくむし」という団地で流行っていた野球に似たゲームがありました。この「ろくむし」は、守備側と攻撃側に別れ、2点間を攻撃側プレイヤーが6回往復すれば勝ちで、守備側は軟式テニスボールをぶつけることで攻撃側を撃ち倒すことができます。新しいルールが子供たちによって常に自発的に提案され、時にはゲームバランスを崩しますが、時にはそれで子供たちのグループが真っ二つになることもありました。

明らかに面白くないルール、誰かにだけ有利なルールを提案しても、子供たちはついて来ません。それが仮にガキ大将であり、喧嘩が強い子供の提案で、強制的に実行されたとします。でも、実際にやってみてもゲームが成立しないか、続かないのです。

常に重要なルールは「面白いほう」に子供が動く、ということです。私は自分で面白いゲームシステムを提案する才能があったようで、周りの子供を「やってみようよ!」という気持ちにさせる側に立つことが多かったと思います。それが理由でいじめられることもあったかもしれませんが、遊び中として男女問わず友達が増えたり……といったプラスの出来事のほうが記憶には残っています。
この「面白いことに人は動く」、「面白くないと続かない」というポイントは重要で、次のお話に続きます。

 

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